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初めての陰ヨガ体験

初めて陰ヨガを体験した。 リラクセーションをテーマにした3時間の陰ヨガ体験は、東洋医学の治癒のプロセスに似ていた。それは、治療の中で気持ちよい痛さを体のあちこちに感じながら、次はどこを触れられるのか、少しドキドキしながら見守っている感じから、だんだんと意識がぼんやりして眠くなるというプロセスだ。陰ヨガは、東洋医学の陰陽の知恵を取り入れているヨガだから、もっともなんだけれど。 そう感じたのは、自分の体験によるものなので、自分の初めての陰ヨガ体験を記しておこうと思う。 クラスの前半から中盤は、陰ヨガで言うところの「ターゲットエリア」に意識をおいて、感覚の移り変わりを観たり、刺激の強弱のバランスをとるのに、マインドを働かせている状態が続いていた。ゆっくりとではあるけれど、次から次へとポジションを変えて、ポーズをとっていくため、数分間ポーズを保っていても、なかなかマインドが静かになるタイミングはない。 ターゲットポジションへの刺激が経絡への刺激となって、体の感覚はどんどんと高まっていくが、マインドはまだリラクセーションには至らない。このままどう展開していくのだろうという不安もよぎるが、それもまた体験と思い直して、集中してそこにとどまった。 ところが、終盤に近づくにつれ、マインドがその仕事を止めているのに気づく。いろんなポーズを重ねるにつれて、体全体の気の流れが活性化し、マインドの働きを包み込むくらい充満しているようなのだ。クロージングに参加者が一言づつ感想を述べる時間では、体はそこにあるのに、マインドはすっかり彼方へいってしまっている状態だった。 それは、指圧や鍼の治療を受けた後のよう

文庫本を鞄に

最近、久しぶりに文庫本を持ち歩いている。 というのも、気になる男優が「最近は、スマホを見ている人ばかりだが、そんな中で本を読んでいる女性がいると、いいなと思う」という話をしていたので、あまりにも単純だけれど、それを地でやっているわけ。 移動中やちょっとした空き時間は、ipadを触ることが多かったのだが、触れはじめると、必要以上に見てしまうことが多くて、妙な癖がついてしまったと思っていたので、その点でもよいきっかけだったのだ。 家にある本の中からなんとなく選んだのは、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』。タイトルの脇に、「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」とあるように、片手間に読むような本ではないのだけれど、読み始めると、はっとさせられる美しい言葉の数々に、しばし現実逃避してしまう。 没落やら狂気やらの言葉は、単語としては心を寒々とさせるのかもしれないが、ツァラトゥストラの言葉となると、何やら妖しい光を放って心を捉える。その破片を持つ者としては、その光に思わず惹かれてしまうのだ。 人間における偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ。人間において愛さるべきところ、それは、かれが移りゆきであり、没落であるということである。 舞踏する星を産むことができるためには、ひとは自分のなかに混沌を残していなければならない。

所有することを手放す

つい先日、無事に引っ越しを終えた。 引っ越しというのは、いろいろな選択を迫られる場面が多い。 どの地域に引っ越すのか、どんな部屋に暮らすのか、何を処分して、何を残すのか、大きな選択から小さな選択までを次々とこなさなくてはならない。 迷うことなくできる選択もあれば、一度、選択したものの「あれでよかったのだろうか」と何度も思い返して、不安になる選択もあった。 そんななかでも印象的なことが、音楽CDを整理するなかで起きた。 その時々に好きだった音楽CDを買って、処分することなく今に至っているけれど、最近は音楽を聴くことが極端に少なくなくなっていた。ほとんど再生されることがない多くのCDに、「自分がこれまで聴いてきた音楽」というラベルを貼って、所有しているだけなのであった。 それらは、今、必要なものとしてあるのではなく、私が「所有している」という実感を確認する手立てとしてそこにあるに過ぎない気がしてきた。所有しているのは、音楽そのものというよりは、あの時、あの音楽が好きだった自分、というアイデンティティのようなものなのかもしれない。 それに気づいた時、CDを手放すことを自然と選んでいた。それは、CDという物を手放すというより、所有するということを手放した感じだった。CDに占領されていたスペースが空くと、それが思いのほか私の心を軽くした。聴いてないけど持っているということが、重荷になっていたのかもしれないのは意外だった。

© 2015-2020 Fumi Kashiwagi