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ヴィパッサナー瞑想センターでは、ボランティアの奉仕者の方たちが瞑想コース参加者のために食事を作って、提供してくださる。6時半に朝食、11時に昼食、17時にフルーツ(新しい生徒のみ)をいただくのだが、どの食事も素朴で美味しい。

このコースに参加するにあたって受けた助言の一つに、「食べ過ぎないこと」というものがあったので、いつもよりかなり控えめに食事をとるようにした。それでも、食後の瞑想は眠気に襲われる。

瞑想することを目的に来たのだから、眠気に襲われてばかりで、瞑想に集中できなければ元も子もない。食べ過ぎないというのはとても大事だと痛感するとともに、日頃、自分が食べ過ぎていることにも気づかされる。

本当はもう少し少ない量で十分なのに、自分の欲を上乗せして食べているのだ。こんな風に、いつもの習慣の正体が明らかになり、ぺらりとが剥がされていくのも面白い。

コースを終えて日常に帰ってくると、またいつもの習慣が現れてくるが、それを意識して、問いかけるスペースが生まれるようになった。

そして、食事のメニューについても、基本となる食材を上手く使い回してアレンジしたものが多かった。瞑想センターから頻繁に買い出しするのは大変だろうから、根菜や乾物など日持ちする食材をベースに作られている。時々、スパイスを加えたり、ドレッシングを工夫することでちょっとした変化がつけられていた。基本形があって、その上で遊び心を加えていくと、シンプルで安定感がありつつ、飽きのこない食事になる。

いつも自分の作る食事がパターン化している私は、そのことに引け目を感じていたのだけれど、まっとうな食材で作ったシンプルな食事で、私は十分だなと思い直すのだった。

ヴィパッサナー瞑想コースでの体験を記すことは、2週間近く前のことを思い返すことであり、もしかしたら事実を自分の理解しやすい形に昇華してしまう恐れもある。それを念頭に置きつつ、書きたいと思う。

また、ヴィパッサナー瞑想について話したいのであれば、それは体験から語る以外、意味がないということが自分の中で明白になった。私が語りたいこと、人とシェアしたいことは、自分の体験に基づくものだけなのだということがクリアに見えてきたので、これからも実践し続けることを選びたいと思っている。

練習する内容がアーナーパーナ瞑想からヴィパッサナー瞑想に切り替わった頃を境に、自分の中に変化が起きていることに気づいた。

全身の感覚を感じ取りながら、身体を客観的に観察するという行為に取り組み出した時、身体のあちこちで泡が弾けていくようなチリチリとした感覚や、時に電流が流れていくような痺れる感覚に圧倒され、その世界をワクワクして観察している自分がいた。目を閉じて、感覚を頼りに、自分の身体の輪郭をたどっていく行為は、身体マップを作っていくような、探険隊になったような、心躍る作業だった。

瞑想すると、過去の記憶が思い出されてくると聞いていたので、当初は潜在意識に埋れている記憶が出てくることを期待している自分もいた。しかし、私の記憶はほんのたまにしか現れず、大半の時間は、身体のリアルな感覚と向き合うことになった。

瞑想の時間は、長いと2〜3時間ほど続くのだが、座ることに慣れていない私が集中して座っていられるのは40〜50分くらいだった。集中が途切れてくると、立ち上がって外を歩いたり、お茶を飲んだり、切り替える時間をもっていたのだが、そこでも、感覚に注意を向けるという行為は続けているように指導されていたので、できるだけ感覚とともにいるようにした。

自分の変化を感じたのは、そうした合間の時間だった。感覚に伴って生まれてくる波動のようなものを感じていると、不思議と慈しみの心が湧き始めたのだ。慈しみの対象としてよく現れたのは、母だった。この先、もっと母と一緒に時間を過ごしたいという思いや、一緒にヨガをする時間を作ろうというインスピレーションも湧いてきた。それ以外にも、仕事先のスタジオのことや、日頃接している人達、過去に出会った人達のことも浮かび、それらを慈しむ心が湧いてきた。

湧いてくる想いを見ている「意識」は「私のもの」という認識はあるものの、想いそのものは、感覚が持っているもののように感じられ、「見ている私」とは関係なく、勝手に生まれてくるもののようだった。だから、たとえば「母のために○○をしたい」と思うのは、私というより、身体の感覚の中に埋め込まれている何かが望んでいることだった。私の意識は、感覚が望んでいることを「そうなのか」と見ているに過ぎないのだった。その意識と感覚の関係性に気づいたこと、そして自分の中にこれだけの慈しみが潜んでいることに驚いた。

慈しみから生まれるインスピレーションは数知れず湧いてきて、その都度、メモをとりたくなる。しかし、この瞑想コースでは、参加するにあたって一切の筆記用具を手元に残さず、預けるルールになっていて、書き残すことができない。自然と、インスピレーションの持っているエネルギーとともに、その想いを胸にしまうことになる。

そんなことを繰り返すうちに、想いを自分の胸に秘めておくこと、それを行為に移すまで保持しておくということが、エネルギーの純度を高め、行為につながるエネルギーへと十分変換されるために必要なもののように思えてきた。胸にとどめることができたものは、実現するに値するものだし、その想い、エネルギーがストレートに表現されそうな気もする。

普段は、思いつきをすぐに書き残したり、人に話したりと外に出してしまうことが多いのだが、そうすることで自分の中で満足して、表現したつもりになってしまったりする。エネルギーが変質して、行為に至らないこともあったかもしれない。

感覚にフォーカスするという、ごくごくシンプルな行為が、自分の中に潜んでいる想いに出会う入口となったことが、何とも不思議だった。それには、自分自身を長い時間、瞑想状態に置くことが必要だったということも、体験を通して理解できたように思う。

この年末年始に京都にあるヴィパッサナー瞑想センターに滞在し、10日間の瞑想コースに参加した。そこで体験したことを自分自身の覚え書きとして残しておこうと思いつつ、2週間近くが過ぎてしまった。

というのも、コースから戻って2日後から体調が思わしくなく、その後、喉の痛みや咳、鼻水、発熱など風邪のような症状が続き、寝込むほどでもないけれど、超低空飛行な日常生活を送っていたからだ。

理由はなんであれ、コース最終日に「これから毎日、1時間は瞑想するぞ」と決意したものの、絵に描いたような3日坊主に終わってしまった。ただ、まったく瞑想の時間を持たなかった訳ではなく、集中していられるわずかな時間だけでも、ただ座るという行為は続けていたので、体調不良の自分を比較的リラックスして受け取められたような気がする。出てくる症状は全体の一部であると、全身が症状を認め、受け入れていることを、感覚を通して理解できたことで、気持ちは穏やかでいられたように思うのだ。

瞑想コースでの体験を振り返る前に、この体調不良の時間に起きた体験も記しておこうと思う。

喉の痛みから始まった不調は、次第に風邪の症状に変わっていき、だらだらと続いていた。風邪のための処方薬を飲み始めたのが、体調が悪化して1週間も経った頃。その薬の副作用として、眠気が出るので、車などの操作をしないようにという注意を受けていた。

その薬の作用たるや、かなり強くて、風邪の症状を抑えるだけでなく、副作用も大きかった。酩酊しているような、脳みそが無重力空間に投げ出されたような、変な浮遊感の中、日々を過ごすことになったのだ。その浮遊感に身を任せて、何もせず、考えもせずにいるだけならば、それはちょっとした恍惚体験となった。しかし、日中は仕事をしているので、その浮遊感から抜け出すために、それなりの集中力を絞り出す必要があった。

感覚に委ねている状態と、それをコントロールして、意識的に行動しようとする状態の間を行き来するのが、ジル・ボルト・テイラーの著書『奇跡の脳』で描かれていた体験に近いものを感じた。実はこの本は知人から、ヴィパッサナーに行くならぜひ読んでほしいと勧められて読んだものだったので、こうして自分の体験と符合していくのが面白くもある。

感覚に素直に自分を預けてしまうと、不思議と満たされるような、幸福感のようなものが溢れてきて、何でも肯定したくなり、人に対してもオープンマインドでいられるような気がした。日頃の自分は、心の中で忙しく物事を判断しているから、そうしたことから解放されることの意味を体験したような感じだ。一方で、常に委ね切ってしまうこと対して、どこからか危険信号が発されているような感じもあり、身体はバランスをとろうと働いてくれているのかもしれないと思うのであった。

そんなこんなで、この文章も、まだ地に足が着いてない浮遊感の中、書いている。いつもの私と少し違っているだろうか?

© 2015-2020 Fumi Kashiwagi