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8月19日、友人が主宰するワークショップにゲストとして招いてもらった。

「話す・聴く・気づきのワークショップ」というタイトル通り、話して聴くという行為の積み重ねから、自然と気づきがもたらされる時間だった。

ワークショップが終わった直後、そのとき感じたことをざっと手帳にメモしたけれど、まとまった文章を書くところまでは辿り着けなかった。

しばらくの間、あの場で自分が発した言葉や、他の参加者の言葉などが、鮮明に思い出された。それは余韻のように響いて、たびたび新しい気づきが自分のもとにやってきた。

印象的な言葉でも、時間が空くとあいまいな感覚としてしか残らないことも多いのに、今回のワークショップの後には、鮮明に残っている言葉がいくつかあって、それがまさにこのワークショップの意義なのかもしれないとも思った。

そう、ここで話したいのは、私のもとにやってきた気づきについてでもあるし、このワークショップは私にとって何だったのかということ。脈絡をつけるのが難しいので、とにかく思いついたまま連ねてみる。

ワークショップが始まってしばらくしてから、この場を自分がどう過ごしているのかが見えてきた。このワークショップは、他者と対話をすること、すなわちコミュニケーションを図ろうとすることを一度手放してみる時間ととらえている自分がいた。

その代わり、他者の言葉が自分の中にどう響くかに焦点を当て、それが結晶のようになると言葉として発した。もちろん、流れの中では相手に配慮したり、相手にとって必要な情報も含ませて言葉を発するのだけれど、その言葉の芯にあるものは、他者の言葉の響きを受け取った自分が一番必要としているものだということにも気づきはじめる。

今回は「生命」というテーマが掲げられおり、私はヨガ教師という立場にいる人間として、この場に招いてもらった。表向きはそうなのだが、その立場を必要以上に意識せず、素のままで参加してみようというのが自分の意図だった。けれども、自分の中から出てくる言葉は、ヨガを通して学んだことばかりで、ヨガが今の自分の思考を形成する核のようなものになっているのだということに改めて気づかされた。

このワークショップは、言葉をキャッチボールすることを意図した場ではないので、みんな思い思いのタイミングで言葉を放っていく。目の前に並んでいく言葉たちと、その言葉に反応して自分の中に沸いてくるもの。一時に立ち上がってくる言葉やフィーリングを眺める時間が続く。

それは今起きていることに集中する作業でもあるので、4時間におよぶワークショップが終わったときは、どっと疲れた気分になった。人によっては、掲げられたテーマを掘り下げるためにもっと時間がほしいと感じる人もいるのかもしれないが、この場にとどまり続けるという観点からすると、十分な時間だったように思う。

今回のワークショップには、ファシリテーターという役割は置かれているものの、ファシリテーター自身も他の参加者と同様に参加しているので、場がどのように展開していくのかは、本当に未知だった。そんな実験的な場だったからこそ、自然な展開が見せてくれるような気づきも多かった。

自分の反応として現れてきたものも、他者の言葉がいくつか重ねられることで変化してくる。また、誰かの言葉にインスパイアされて、急に新しく浮かび上がってくるものがあったりする。その変化し続ける思いを、どのタイミングで自分の言葉として発するか。リリースするタイミングを計る自分もいた。

日常の会話よりも、言葉と言葉の間に直接的関係がないことも多く、また沈黙というスペースもある。自分の発した言葉が間髪入れずに肯定や否定されるのではなく、沈黙という空白の後に、自分の言葉の波紋がどんな風に広がったのかを知ることになる。

日常での沈黙は、時に緊張やプレッシャーをもたらすものだが、ここでは、自分が快・不快と反応していることに気づき、冷静になれるだけのスペースをくれた。

人は、ある立場からものを見て、考えているのだということがよく分かったし、一人ひとり必要としていることが違うのだということも分かった。そして、このワークショップに参加したことで、各人が必要としていたものをそれぞれ手にしていたように感じられたことも驚きだった。誰が何をした訳でなく、結果としてもたらされたという展開が驚きだった。

一つひとつの言葉が、その人を表現している。言葉を探っていたり、言いよどんだり、それすら表現で、そこから聴き手はメッセージを受け取っている。「言葉をもつ」とはどういうことなのか考えさせられる時間だった。

先日、クリパルヨガ教師のための研修プログラムに参加した。

今回のテーマは「今に存在する実践」。練習として、「5分間、アイコンタクトを保つなかで今に存在する」というワークをする。ペアになって向き合って座り、お互いの目を合わせて5分間を過ごすという実にシンプルなワークだが、BRFWA(Breath, Relax, Feel, Watch, Allow)を実践する絶好の機会となった。

初めて体験するワークなので、何が起きるか全くの未知。そのことにワクワクする自分がいた。せっかくなのでその体験を記しておこうと思う。

ワークの前半は、今にいようと意識的に努める必要があった。意識するたびに、BRFWAの何かしらに触れているという感じだ。ツールを知っていても、実際に使うには、それについて意識的であり続けねばならないということを逆説的に体感する。それが後半になると、独りでにBRFWAの状態に入っていることに気づく。時間の経過で何かのチューニングが合うと、すべてが自然と行われ、調和していくような感じだった。

もう少し時間の経過を細かく追ってみると、始めはどうしても笑いが押さえ切れなかった。人と目が合うとつい、頬が緩む。また、周囲で小さな笑いが起きていると、それにつられて笑いたくなる。笑いたくなるのを抑えようとすると、さらに笑いが沸いてくる。どつぼにはまるかもしれない。この笑いがいつ落ち着くのか分からないけれど、波が通り過ぎるまでしょうがないと、状況をとりあえず認める。すると、身体に起きている感覚や呼吸の流れに意識を向けられるようになり、笑いの波は次第に収まっていった。

アイコンタクトをとる。視点を一カ所にとどめて保つことで、自分の見え方に左右の違いがあると気づく。真っすぐ見ているようで、片方に偏っている。それが居心地悪くて、調整しようとする自分がいた。

ただ瞳を見つめているだけなのに、その瞳がさまざまなメッセージを語っているように感じられる。嬉しさ、哀しさ、寂しさ、怒り。いろいろな感情が混ぜ合わさったような、何とも言えない表情は、まだ言葉をうまく使えない子どもの表情のようだ。

言葉を伴わない分だけ、やさしく静かなメッセージだ。けれど、一度それに気づいたら、無視できないくらい力強いものだ。そう、これが生きている人間の力だと思う。日常でアイコンタクトをとるときは、たいてい言葉を交わしているので、瞳から放たれるエネルギーを十分感じ取れていないのかもしれない。

後半になると、瞳の奥まで意識を運んでみるよう促される。目の前にいる人の存在を全身で感じるような時間。すべて肯定されているように感じられ、自然と体や心がリラックスしていく。そこにいることにただ集中していられる。いつのまにか、自分自身もすべてを肯定したくなるような、幸福感を手にしていた。

親知らずを抜いて間もない頃、東京国立近代美術館で開催されている「ジャクソン・ポロック展」に出かけた。痛みを抱えていたら、展示に集中できないだろうけれど、会期中で他に行けそうな日がなかったので、意を決したのだ。

かの有名な「インディアンレッドの地の壁画」は、やはり格別だった。全体が視野に入るように離れて観ると、絡み合うような線が有機的に立ち上がり、凄まじいエネルギーを発しているのを感じる。絵が放つ力と、その絵の中に引き込まれるような力とを感じながら、作品の前に立っていた。吸い込まれるほどの奥行き、その果てしない広がりに言葉を失う。

ポロックの言葉で気になるもの。それは、意識と無意識について。

絵の中にいる時、私は自分が何をしているのか気づいていない。一種の「馴染む」時期を経て初めて、自分がしてきたことを理解する。

私は変更したり、イメージを破壊したりすることを恐れない。なぜなら、絵画はそれ自身の生命を持っているからだ。私はそれを全うさせてやろうとする。結果がめちゃくちゃになるのは、絵とのコンタクトを失った時だけである。そうでなければ、純粋な調和、楽々としたやり取りがあり、絵はうまくゆく。

Jackson Pollock "My Painting"1947

大島徹也「ジャクソン・ポロック-存在と生成-」

作家の個人展に行くのは久しぶりだった。その人の足跡をたどるように、年代を追って作品を観ると、人生とは、なるべくして起こることの積み重ねであると同時に、次に何が起こるかわからないものなのだと改めて思う。

こうして展示会を訪れて思うのは、作品に添えられた解説文はどうにかならないのか、ということ。読んでよかったと思うときと、読まなければよかったと思うときとがあり、そのことで作品を観る気分や集中度が大きく影響されるからだ。あまりに実のない解説が続くと、何もない方がどれだけよいかと思ってしまう。

と、愚痴てしまったけれど、ポロックの作品は素晴らしい。

© 2015-2020 Fumi Kashiwagi