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ワタリウム美術館で開催されていた坂本龍一氏の「設置音楽展」に出かけた。自身の最新アルバム「async」を良質な環境で聴いてもらいたいという思いから、5.1ch サラウンドで音源を試聴できるよう企画されたという。

ゴールデンウィークに出かけたこともあって、超満員の会場で聴くことになったけれど、そんなのは些末なことだと思えるくらい、どっぷりと音を堪能できる贅沢な企画だった。

何の予備知識もないまま、ただそこで鳴っている音を聴く。音の振動、圧、質感、それらの重なりが細胞へと届く。それは、地球が鳴っているような、宇宙が鳴り響いているような音だった。目を閉じると、軌道を進む惑星の姿が浮かんだ。無機的な存在から放たれている音に耳を傾ける。それは私が今、聴きたいと思っていた音だった。

ふと、香川にあるイサム・ノグチ庭園美術館で、イサムの彫刻作品を前に感じたことが思い起こされる。世界には、私がまだ気づいていない音がある。世界は音に満ちている。

メロディーとノイズ、ハーモニーと無調が入り交じる音楽は、聴きづらいものかもしれない。音源を1曲、2曲聴くと席を立つ人もいて、こういう音楽はマニアックなのだろうかとも思ってしまう。しかし、普段でも歌詞の意味以上に、言葉のもっている音や響きを味わいたい自分にとっては、何かを訴えようとしている音楽より、次に何が来るか想像できる音楽より、ただ鳴っている音の方が、ずっと興味深いのだ。


リニューアル・オープンした東京都写真美術館にて、杉本博司「ロスト・ヒューマン」展を見る。

以前、彼のモノクロ写真を見たとき、そのグレーの色調の美しさに見惚れてしまった。透明度があって、クリアなのだけれど、そこに暖かみが感じられる。その場で立ち止まらざるを得ない作品ばかりだった。

今回は、展示会のタイトルともリンクする〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉という作品がメインだったのだけど、モノクロ写真好きの自分にとって印象的な体験になったのは、写真作品群である〈廃墟劇場〉と〈仏の海〉だった。

〈廃墟劇場〉は、アメリカ各地の廃墟となった映画館にて、彼が選んだ映画を上映し、その映画1本分の光量を浴びて浮かび上がる劇場を長時間露光で撮影した作品だ(展示会のフライヤー右側にある作品もその一つ)。

そして、〈仏の海〉は京都の三十三間堂の千手観音を、早朝の自然光のみで撮影した作品。

人口の光と、自然の光。モノクロの写真は光を際立たせるが、二つの作品のもつ光は、人を引き寄せる強い力があるように感じた。

映画1本分の光量は凄まじく強い。自分も映画館が好きだが、映画を観るということは、この光を浴びるということであり、その光量に引きつけられているということなのかもしれない。

千手観音は、朝日を受けて静かにその表情を見せているが、私には観音が背負っている後光の方が強く迫ってくるように感じた。

どちらの光も、その強さに目が離せなくなる。その圧倒的な存在を望む心が人にはあるのだろうと思う一方で、それに反発する自分もいる。それは、どんなに微かで弱々しくても、自分の内に火を灯して、それを守りたいという私の思いだった。


先日、フェニックス・ライジング・ヨガセラピー(PRYT)のセッションを体験する機会がありました。セッションでの体験には個人差があり、私自身の体験も毎回異なりますが、不思議と自分が抱えているテーマを、様々なかたちで体験しているような気がします。

今回は、私の体験のハイライトと、それを統合していくプロセスについて記してみたいと思います。

ハイライト[ポーズの体験で、一番印象的だったこと]

今回は、脚上げのポーズ(仰向けになった状態で、片脚を床と垂直になるくらい上げてもらうポーズ)の中でエッジを体験した。

エッジにいる時、プラクティショナーが私のポーズをサポートするために力を使ってくれているが、その力に反発するように、自分の中にも力が生まれいるのに気づく。私の中には、「もっと脚を伸ばしたい、蹴るようにして跳んでいきたい」という感じが湧いてきた。時に、自分の体が仰向けではなく、上げている片脚で立っているような、上下が逆転したような感覚もやってくる。それくらい、私の上げている脚は力強く前へ進みたがっていた。同時に、お腹や喉の辺りからも、何かが勢いよく飛び出ていくような、突き上げるような感覚があった。

しかし、ある瞬間に気づく。私はものすごく力を入れているけれど、そんなに力む必要があるんだろうか、と。そのとたん、体全体がリラックスして、プラクティショナーが支えてくれているのに委ねることができた。自分が「ただそこにいるだけ」という感じになると、自分の力とともに飛び出そうとしていた時とは全く違う感覚やフィーリングがやってきた。力を手放した途端、体全体が感じられるようになったのと同時に、力まなくても自然と前に進んでいくようだった。さっきまでの飛び出していこうとする勢いや熱さは、全体の一部が突出して起きている感じだったが、今は自分の全体とつながっていて、そこに広がりや静けさを感じている。こちらの方が気持ちが安定して、心地よいと感じられた。

エッジ

PRYTのセッションでは、エッジと呼ばれる場所でポーズを保つ。エッジとは、きつ過ぎず、ゆる過ぎない、ある程度強い感覚が生じているところ。

統合[体験と日常と統合する/体の知恵を聴く]

日常生活とのつながり

〜体験のハイライトと自分の日常につながりがあるだろうか?〜

私には、「自分が何かしないと人生は動いていかない」と思う傾向がある。だから、人にサポートしてもらうことに遠慮がある。また、自分はどうしたいのか、正直に人に話す機会も少ない。ハイライトとなった体験のうち、力を入れて前に進もうとしていたあり方は、そんな自分と重なる。

一方、ハイライトには、力を緩めてリラックスしても、自然と前に進んでいくような感じもあった。そんな感覚が日常で起きたのは、自分のことを人にオープンに話したり、感じていることを正直に伝えたりする関係がある時で、その中で誰かが自分に新しい可能性を提案してくれた時だ。それは自力だけでは起きないだろう話だったので、前に進むベクトルは、自分の中だけにある訳じゃないのだ、と気づかされた。

(セッション後、しばらくたってから気づいたことがある。人生という川は、自分の力で漕いでいくことも必要だが、川の流れに乗っていくためには、リラックスして流れを感じて、周囲の景色や人との巡り会い、その一期一会を大切にすることも重要だ、と。)

体の知恵

〜ハイライトと日常とのつながりに気づいた後、体の知恵に耳を傾ける〜

目を閉じて体に注意を向けると、みぞおちや肩のあたりに暖かさを感じた。その暖かさを感じていると、自分の視野が広くなり、ハートも開かれていくようだった。日常でもその感覚とつながっていたら、もっと人に思いやりをもって接することができるかもしれない、人の話を聞くことが私の喜びになるかもしれないとも思った。

それは、私が願う生き方であると感じる一方で、少し身慣れない感覚でもあるから、ずっとハートを開いたままでいると、閉じたくなる感覚も同居していた。自分の奥底で求めていること、恐れていること、それらを正直に感じていたら、今の自分を丸ごと受け止めるのが楽に思えた。自分が願っていることを認めることで、少しずつかもしれないけれど、そこに向かって行動できる可能性が感じられるようになった。

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