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私は今、「フェニックス・ライジング・ヨガセラピー(PRYT)」のセラピストを目指して、トレーニングの真っ最中です。このワークは、ヨガの伝統的な知恵と、現代の心理学のアプローチを融合したもので、一番の魅力は「体の知恵を信頼する」ところだと思っています。私自身の体験でも、頭であれこれ考えて堂々巡りしていたことが、体の知恵に耳を傾けたら、迷いが消えていた、ということが何度もありました。

何よりもこのワークに関わったことで、人と向き合うのもとても楽になったように思います。トレーニングは今年9月まで続く長いものですが、その旅路で自分にたくさんの変化が起きるんだろうなと思うと、楽しみでなりません。

私がこのワークに惹かれる理由はいくつかあるのですが、その一つに、自分の人生経験からくるものがあります。それは、社会人として働くなかで自分のバランスを見失い、うつ状態になってしまった体験です。

周囲の期待に自分を合わせようとしたことが、私の体や心に緊張やストレスをもたらしていたのですが、つらい状況の時、自分の体や心がアラートを発しているのはわかっても、それにどう向き合ったらいいのかはわかりませんでした。そんな状態だったので、人に説明したり、相談することも難しかったことを覚えています。

この時の自分のように、仕事や生活のバランスがとれずに、つらいと感じている人のサポートになれるかもしれないと思ったことが、セラピストを目指す動機の一つになりました。

フェニックス・ライジング・ヨガセラピーのセッションを何度か体験するなかで、私は少しずつ自分に素直になれるようになったと感じています。「自分の体や心に起きていることに正直でいていいんだ」と感じられる安全な場所やワークを提供したい、それが私の願いです。

9月までのトレーニング期間中、たくさんのプラクティス・セッションを実践することが課題となっているのですが、そこで出会う多くの方から、このワークの可能性を学びたいと思っています。このワークが役立つかもしれないと思う方が近くにいらっしゃいましたら、ご紹介いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

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個人セッションの意図や流れについて


父親が一眼レフカメラでモノクロームの写真を撮っていた影響もあってか、気づけばモノクロ写真を観るのが好きになっていた。人見知りのくせに、人を観ることは好きなので、名もなき人々のポートレート写真に惹かれる。自分も同じように、街に出て写真をとってみたいと思う時期もあったが、見知らぬ人の波に正面切って飛び込んでいく勇気は、私にはとても持てなかった。

生前、15万枚以上の写真を撮ったにも関わらず、作品を一枚も公表することもなく、この世を去った写真家がいる。その人、ヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)と彼女の作品に触れたのは、ドキュメンタリー映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」を通してだった。

ヴィヴィアンは乳母として働く傍ら、写真を撮影した。1950〜1960年代のアメリカのストリートを行き交う人々を撮った作品は、被写体となった人物が今にも動き出しそうな、生き生きとしたものばかりだった。ベビーカーを押しながら、子どもを連れて街を歩き、時にスラム街や家畜小屋なども訪れたと聞くと、乳母というのは表向きの姿に過ぎなかったのではないかと思わすにいられない。

彼女を知る者は、彼女を孤独でエキセントリック、ミステリアスな人間だったと口を揃える。自分の興味の赴くまま、ひたすら写真をとる一方で、自らを表に出すことはめったにせず、部屋に人が立ち入ったり、物を触れられることを極端に嫌う人だったという。また、凄惨な事件を扱った新聞記事を収集するなど、彼女の人間への興味は偏っているのかもしれないと思う面もある。しかし、その作品を見ると、見ず知らずの人を正面から撮影することができるほど、大胆さと勇気を携えた人でもあったのだと思う。

映画には、乳母や家政婦としての彼女を雇った人や、彼女が当時世話をした子ども達が登場し、彼女にまつわる記憶を語る。そこから彼女の輪郭は見えてくるものの、真実は誰にもわからない。

今ここに存在するのは、彼女の写真だけ。

http://www.vivianmaier.com

http://vivianmaier-movie.com

写真を撮るという行為の素晴らしさは、複雑な人間の表情の中から、無意識の、本能的で自然な、健全で創造的な何かがにじみ出てくる瞬間をすくいとることにある。

— Jillian Edelstein

先月、10日間に渡る「フェニックス・ライジング・ヨガセラピー(PRYT)」のトレーニングLevel1-2を受講してきた。

このトレーニングのユニークなところは、PRYTがどんなワークで、何を目的としているのかを、自分を題材に体験的に理解させるプログラムだったということ。マニュアルが配布されたのが終盤だったこともあり、自分の五感と直感を全開にして臨むことになったけれど、それが結果として自分を信頼することにつながった。

私にとってPRYTとは、「自分はどうありたいのか」を探求するサポートをしてくれるものだった。どんなふうに人と関わりたいのか、どんなところに立って世界と関わりたいのか。これまで、そうしたことを自問自答していくプロセスがしんどいなあと思っていたけれど、PRYTに「このプロセスを楽しもう」と教えてもらったような気がする。

私の内に深く宿ったのは、「存在する」ということ。その前提として、存在の土台になる体を信頼するということだった。体って、問いかけるといろいろなことを話してくれる。体が話してくれてはじめて、「ああ、私はそんなことを感じていたのだ」と思い出すこともできる。体を信頼するということは、体験につながりつづけるということで、そのことが体や心をも包括する「存在」という感覚をもたらしてくれた。

「存在のただなかにいる」と感じられるとき、私のすべてが喜んでいた。それは、日常の時空とは違う時空にいるようだった。いつも存在としていられるわけではないけれど、その瞬間というのは確実にあった。

この10日間を終え、自分の抱えていた怒りや不安がリリースされ、すっきりしているのを感じる。と同時に、自分という存在を大切にして生きていこうと改めて思う。

© 2015-2020 Fumi Kashiwagi